感性行動研究所
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ハワイのフナ(古代形而上学)・脳科学・ヨガ・エネルギー療法や
心理学を融合した幸転プログラム
高校生ぐらいのころから、自分が将来何になると聞かれたら、
「制服を着ないような仕事をしたい」ということを言っていたのを思い出します。
まあ、その理由は、警備員とか警察官とか「制服」を着ていたら
〇〇さんとしてではなくて
ガードマンさんとか
おまわりさんとか
役割りが人格になっているように感じられて独りの人格として見られることもないようにも感じられたからです。
できることならその役割を演じているような仕事よりも自分でありたいそんな感覚があったのかもしれません。
従来の西洋心理学では、個人を示すものとして「性格」があるとしています。
私もプロファイリング手法なども学んできて、それを活用したセッションなども多く行ってきました。
ですが、目で観えないところの感覚まで意識を広げてみると向き合った人の変容が表面的(意識上だけ)であるのか、それとも深層レベルで起こっているのか、なんとなく理解できるようになってきたのです。
そうするとあることに気づきます。
結局、どんな分析をしようとも「性格」というのは、服装や仮面と同じように、表面的な簡単に取り換えることができるもので性格だと思っていたものは結局自分自身そのものではないということに。。。
本来の私たちにはとても高い能力があって無意識のうちの環境や周りのひとに合わせて衣装(性格)を変えているにすぎないのです。
たとえば警察官になってその制服を着ると警察官になってしまう。
警備員やエレベータガールやバスガイドの制服を着るとそれらしくなってしまう。
こういったこととあまり変わらないのです。
そうとらえたのなら服装(性格)を変えることができたときどんな感じがするでしょう。
自分にマッチした素敵な服を着ることができたなら、その時はうれしいかもしれませんよね。
でもやがて心の奥底の核心部分の根本的なところが満足していないことに気づきます。
性格=自分自身ではない
そのことを実感できたのならさらに新しい世界を感じることが出来るようになるかもしれません。
2013年01月23日
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