満たされることでは人は変容しない。‶聖なる不満足が必要だ”

関連画像

願望の実現や思考の実現化について、瞑想のワークショップを行っているワドゥドゥが師匠であるOSHOに願望の実現と内なる平和(瞑想の状態)へと導くのか?
について質問をします。
それに対してOSHOは、肉の欲求の充足では外のものは満たされるが内の平和はもたらされないと答えています。
聖なる不満足(欠乏感)=Divine Discontentment。これが静かに人を高みへと導きやがて本物の充足が内側から湧き上がってくる。
劣等感などを含む欠乏感があることで存在(あり方=Being)の変容は起こり、それとは逆の重要感や充足感を満たすことでは、それは外のことにとどまり、存在の変容は起こらない。
この辺りはアドラー心理学ととても似ています。
自己重要感や思考の現実化についての本質論を語ってくれているので
ひとつの提案としてご自分の身体がどのようなメッセージを発するのか?
それを感じてみるといいかもしれません。
とても長文になりますことをここでお詫びいたします。
(1989年9月ボンベイでの説話)


ワドゥドゥ:(質問)
愛するOSHO。
私とワドゥダは「世間の中(市井)での瞑想」というグループを指導しているのですが、その中でマインドがどのように私たちの現実を創りだしているのかを人々に教えています。
そのエクササイズの一つに願望を実現する方法というものがあります。
欲望を満たす方法を見せることは、人々を瞑想の状態へと導くのでしょうか?
それとも、それとはかけ離れたところへ導くのでしょうか?


OSHO:
ワドゥドゥ。世間(市井)の中での瞑想こそ私が伝えているメッセージのすべてだ。
だが、あなたが理解した意味とは違っている。

第一に、瞑想とはマインドの中にあるものではない。

この世界はマインドの中にある。

だが瞑想はマインドを超えたものだ。

マインドは世界を創りだせるが、瞑想を生み出すことはできない。

マインドは、欲求不満を、満足を、快楽を、苦痛を、苦悩あるいは動物のような満足を創りだせる。
バッファローの充足だ。―だが、バッファローは瞑想の中にいない。

あなたがマインドがそれ自体の世界を創りだすと言うのは正しい。
それはそれ自体を対象に投影する。
同じ対象が恋人にも友人にも敵にもなりえる。
同じ人のために死ぬこともできれば、その人を殺すこともできる。
富を、権力を、名声を、体面を欲望することもできれば、無欲であることさえ欲望できる。
帝国を創ることもできる。
アレキサンダー大王にだってなれる。
あるいは世間を放棄して、山中で、ヒマラヤで隠遁することもできる。
それはあなたのマインド・ゲームだ。

あなたの世界がマインドの投影だというのは本当だ。
だが、あなたは人々の欲望を満足させるのを助けようとしている。

あなたはとても意義深い質問をした。
それは瞑想へと向かう助けになるのか、それとも瞑想から彼らを遠ざけるのか?
という質問だ。

あなた自身がしていることは人々を瞑想から遠ざけるだろう。
あなたは友とはならない。
欲望を満たすことを助けるなら人々に毒を与えているのだ。

瞑想への大切な一歩となるのは聖なる不満足(Divine Discontentment 聖なる欠乏感)であり、満足ではない。
人が自分の金に、権力に、体面に満足したなら、なぜ瞑想しなきゃならない?
(注釈:現在、多くの有名な成功者が瞑想を行っている。)
あなたは人に阿片を与えている。麻薬を飲ませている。

ワドゥドゥ。これはあらゆる宗教が時代を通じて行ってきたことだ。
―人々に阿片を与えて、彼らを満足させ、この世に甘んじることが精神的に優れたことなのだと教える。
すべての宗教は人々を慰めてきたが、慰めは宗教ではない。

宗教とは革命だ。

そして革命は決して満足からは生まれない。
それは途方もない不満足から生まれてくる。

例として、インドの歴史を見てみるとよい。
一万年にもわたって、インドはあらゆる類の侮辱、隷属、貧困、病気に苦しんできた。
にもかかわらず、どんな革命もなかった。
おかしなことだ・・・。
何千年ものあいだ、何百万ものインドの人々はほとんど動物のように、あるいはそれより酷くさえ扱われてきた。
けれど、彼らは反抗しなかった。
彼らは完全に甘んじてきた。というのも宗教のせいだ。
―ヒンドゥー教徒、仏教徒、ジャイナ教徒、彼らはみな一つのこと教えている。
この世に満足していれば、あの世で何百万倍にもなって報われる。
不満足でいることは非宗教的なことだ。
もしあなたが貧しいなら、それを神からの贈り物だと受け容れなさいと教えている。

あなたはイエスが

「貧しき者は幸いなるかな。彼らは神の王国を継ぐであろうから。」

というのを聞いたことがないだろうか?

 

彼のこの小さな言明のなかに貧困への本質的な宗教のアプローチが表されている。
すなわち、満足せよということだ。あなたが乞食なら、それは数日間の問題だ・・・。

そして貧しき者を慰めるために、
「ラクダが針の穴を通り抜けることができたとしても、金持ちが天国の門を通り抜けることはできない。」

とイエスは言っている。


それはいい感じがする。
貧しい者は自分の貧しさに誇りを感じる。
それは何かユニークで、特別で、神聖なことなのだ。
金持ちはバカだ。
ほんの数日の富のために、永遠の地獄だ。
数日の貧困で、想像できる限りの、夢見られる限りの快楽が永遠に手に入る。
―永久永遠にだ。
もしどちらか選べるとしたら、どちらを選ぶだろうか?
富か貧困か?―70年の富に永遠の業火。
そこに出口はない。
地獄からは逃げられない。
入ることはできても、出ることはできない。
あるいは70年の貧困か・・・それは単に信頼を試されているのだ。
この試練を喜んで、不満を言わず通り抜ける者は幸いなるかな。―神の王国は彼らのものだ。

一万年の間、あらゆる類の非人間的な生活―侮辱、隷属、貧困、死、飢餓―だが一万年の間、私たちは機構すべてを、社会すべてを変えなければならないといった革命への声は一つも上がらなかった。

既得権益者は幸せだったし、権力にある者たちは幸せだった。
聖職者たちは幸せだったし、貧しき者たち、そして虐げられた者たちは甘んじていた。

カール・マルクスが「宗教は人々への阿片だと証明された。」というのは間違っていない。
その点について、私は彼に完全に同意する。

ワドゥドゥ。あなたはそれと同じことをしようとしている。
あなたは私のサニヤシンなのに人々に満足するのを助けるために世間に入っていこうとしている。

世間(市井)に瞑想を持っていきなさい。
―だが瞑想は満足を意味しない。そうだ、いつかは満足はやってくる。
だが、それは瞑想のはじまりではない。
―それは瞑想の究極の成就だ。

前者の満足は人間に反している。
そして後者の満足はあらゆる潜在性の実現だ。
それが神の王国だ。
だが、それはあなたによって実行されることはない。
だから、それについて語ることはない。それはひとりでにやってくる。

瞑想が深まるにつれ、
あなたがもっと静かになるにつれ、
もっと安らぐにつれ、
もっとバランスが取れ、
中心が定まり、
注意深く、
意識的になるにつれ、
満足は影のようについてくる。
だがそれはあなたの行為ではない。

私は人々に満足を教えない。

だがこれまで人々はごまかされ、騙されてきた。
あなたが世間に行って、自分の欲望に満足する方法や自分の状態に満足する方法を人々に教えるのなら、あなたは人々に愛され、尊敬されるだろう。
だがそれによって彼らのマインドを研ぎ澄まされはしないだろう。
彼らにさらなる叡智をもたらさないだろう。
あなたは人々を鈍感にさせ平凡にするだろう。
バカはいつも満足している。

(※注釈:意識的でない者はいつも満足している)

 


あなたは人々が存在(being)の変容へと向かう助けをしていない。
そのためには不満足が必要だからだ。
人々が変容するためには
どんな犠牲を払ってでも変容される覚悟があるほどに、
どんな危険もいとわなくなるほど、世界に絶望していなければならない。
そして瞑想とは危険なものだ。

それは危険だというのも、あなたのエゴを投げ打たなければならないからだ。
あなたが存在するか、瞑想が起こるかのどちらかだ。

普通ならこう考える。
「自分が瞑想する。」と。
そうならあなたは瞑想とい現象を解っていない。
あなたは瞑想できない。
あなたが障害だ。

あなたは邪魔者にすぎないのだ。
瞑想が起こって欲しければ、あなたは消え去らなければならない。
この自分が何者かであるというアイデアを落とさなければならない。
自分が重要だという考えは、捨てなければならない。

あなたは誰でもない者にならなければならない。
あなたが誰でもないとき、沈黙が訪れる。
やがてそれに満足がついてくる。
それは世間に対する満足ではない。
それは存在対する、星々に、バラに、大洋に、岩に、山々に対しての満足だ。
それは国の大統領や首相であることの満足ではない。
それは世界一の金持ちであることの満足ではない。
それはいわゆる野望の世界とは一切関わりがない。
それまさに野心のない状態だ。
あなたは完全に空っぽであり、あなた自身もない。

その空でのみ、満足が花開く。―その満足は神聖だ。

それはあなたが何かをやったからではない。
それはあなたが起こるのを許したからだ。
あなたは邪魔にならなくなった。あなたは中空の竹のように、竹笛になった。
そして「歌」があなたを通り抜けるのを許した。
それはあなたの歌ではない。
それにあなたの署名は入っていない。
それは存在そのものの歌だ。

世間(市井)に行きなさい。
世間(市井)に瞑想を持っていくのだ。

ワドゥドゥ。
だが私がそう言う意図をを正確に理解しなさい。
彼らがあるがままに満足するのを助けることが瞑想ではない。
現状に満足させることではない。
現状に満足させるなら、あなたは彼らを麻薬漬けにしている。
「あなたはそのままで完全に正しい。人生とはこんなものだから。
あなたはすでに身に余るほどのものを受け取っている。」といった言葉で、
どうにか彼らを慰め、人々の変容を止めてしまった。

あなたがこのような慰めの言葉をいうのなら
人々は喜んであなたに耳を傾けるだろう。

彼らは何千年もこうしたナンセンスに耳を傾けてきた。
これらのことに耳を傾けてきたのには理由がある。
それはとても慰められ、気が休まるからだ。
それはあなたを成長への苦闘から自由にし、
あなたが何であれ今あるままにとどまらせるからだ。
そしてあなたはどぶの中にいる。
あらゆる宗教が、さまざまな理論的な説明や理由付けをとおして、
「あなたがどこにいようとも、あなたが何であろうとも、ただ黙って義務を果たしなさい。そうすれば恩恵が得られるだろう」
と人々に教えつづけてきた。
革命や変容というのは宗教的な言葉ではない。

私にとって、革命なしに、変容なしに、本当の宗教はない。

私は言いたい。
まず変容への旅をはじめるには聖なる不満足(Divine Discontentment:聖なる欠乏感)が必要だ。
変容への旅をはじめられるほど、
あなたが生きている世界を、
あなたの生きている(演じている)人格に対して
完全にうんざりしなければならない。
巡礼のはじまりは途方もない不満でなければならない。

そのような不満がなければ人は容易に怠惰になる。
もし人にこういえば、
「どこにも行くところはない。あなたはすでにいるべきところにいる。
 そして神がすべて面倒を見てくれる。心配することはない。
 あなたにできるのは祈ることだけだ。あなたの貧困を神に感謝しなさい。
 あなたの病を神に感謝しなさい。あなたの老年を神に感謝しなさい。
 あなたの隷属を神に感謝しなさい…」
神に感謝するような何をあなたは持っているのか?

どんな革命も、神に対する革命を意味する。
なぜなら彼は世界の創造主であり、維持者だからだ。
彼は全能者、偏在者、全知者だ。
彼は起こっていること、起こったこと、これから起こること―過去、現在、未来―すべてを見通せる。
彼は世界の隅々にまで届くことができる。
彼には千の手がある。何千本の手を持つ神の絵を見たことがあるかもしれない。
これら何千本の手は言っている。
「心配することはない。あなたのための手もある。」彼が面倒を見る。

どんな不平も冒涜にあたる。
どんな不平も、あなたは神以上に知性があるということを意味する。
―あなたが言っているのは、神が創ったよりも、よりよい世界を創れるということだ。
あなたは神が創ったよりも、人間の性格をもっと輝かしく快活に、統合して創ることができる。
どんな不満も、どんな恨みも、どんな不平も神に反することになる。
あなたの隷属を感謝を持って受け容れなさい。
あなたの侮辱を祈りとともに受け容れなさい。
―これが人々に宗教が教えつづけてきたことだ。これが世間へと瞑想を持ち込んだ方法だ。

ワドゥドゥ。これは古くからの物語だ。
あなたのしていることに何も新しいことはない。
あらゆる宗教のすべての聖職者たちが同じ慰めを与えてきた。
「現状をそのままに保ちなさい。神は天上にいます。人間も世界も申し分ない。

私のアプローチはまったく違っている。

何千本の手を持つ神などいない。何千本かの手では足りないだろう。
今地球には50億人がいる。
少なくとも五十億本の手が必要になる。そうなると神はおらず、手だけだろう。
それでは蛸のようにとても気持ち悪い生き物に見える。
そして世界を見れば、誰も面倒を見ていないことがわかるだろう。
それは偶発的だ。そこに秩序はない。
そこに調和はない。いたるところ無秩序と不調和だらけだ。

神とアドルフ・ヒトラーを同時に思い描けるかね?
そして神は全能で、絶大な力を持っているのだから、たった一本の手でアドルフ・ヒトラーをつまみあげられたはずだ。
だが、一本の手も下りてくることなく、アドルフ・ヒトラーは600万の人々を殺した。

今ではアドルフ・ヒトラーは時代遅れだ。
ロナルド・レーガンが世界すべてを葬れるのに、神はどこにもいない。

せめてロナルド・レーガンをつまみあげてくれ。
一つ変えるだけであなたの存在の証拠になる。
何千年もの間、人は議論し、待ってきた。
―証拠がやってくるにちがいない―だが空は沈黙し、答えはどこからもなかった。

そこには誰もいない。あなたは不必要に待っている。

もしあなたが変えたいなら、何かをしなければならない。
あなたは充分に長く神に頼ってきた。
そして状況はますます悪くなっていく。
状況を自分の手に握るときだ。
少なくともあなたの人生には責任を感じるべきだ。

瞑想は社会革命ではない。それは個人的な革命だ。それは個的な魂への呼びかけだ。
あなたは責任を自分の手に握る。満足してはならない。
なぜなら、あなたにはさらなる潜在性があるからだ。あなたは種にすぎない。
そしてもし種が満足してしまったら、それは自殺だ。
あなたは芽吹かなければならない。木にならなければならない。
あなたはそよ風に、太陽に、月に、風に踊らなくてはならない。
あなたは花咲かせ、自分の中に秘められた香りを放たなければならない。
そしてあなたの香りが放たれないかぎり、あなたは満足を見つけることはないだろう。
本当の満足はひとりでにやってくる。
―あなたに創りだされるものではない。それはまったくの偽善だ。

何とかあなたは何とかやっていける。
「これが自分の運命なのだ。」と自分を納得させられる。
誰にも運命などない。
奇妙な嘘が何百万年も繰り返されて真実になってしまった。
あなたにはどんな運命もない。
誕生図はずるがしこい人たちの搾取にすぎない。
なぜなら星はあなたに興味がないからだ。
すべての星があなたに興味を持っているというのはとてもエゴが満たされる。
―白痴が生まれると、すべての星が白痴に興味を持つ。

私は教師として大学キャンパスに住んだことがある。
そのすぐ近くにとても占星術に興味のある教授が住んでいた。
彼自身は数学の教授だった。私は彼に何度も言った。
「あなたの人格は分裂しているにちがいない。
 なぜって、数学の人が占星術に興味を持つほどバカではありえない。
 あなたは二人で一人にちがいない。
 遅かれ早かれ、神経衰弱に陥ることになる。あなたは分裂症だ。」

彼は言った。
「奇妙だ・・・私は何も君に尋ねていない。私のところへ来て滅茶苦茶に非難するんだ。」

私は言った。
「非難しなきゃならない。一日中、人々が出生図を見せにくるのを私は見ている。
 あなたは人々の手相を読んで、誰と結婚すべきで、誰と結婚すべきではないのかを話している。
 あなた自身の結婚は一体どうなっているのか?」

彼は言った。
「静かに話してくれ。彼女が聞いているよ。」
妻は彼をよく殴っていた。

私は言った。
「あなたの占星術はどこにあったんだい?
 ―あなたが結婚したときに、星はこの女性があなたを殴ることになるという事実について何も言わなかったのか?」

そしてこの国では、あらゆる結婚が占星術師にしたがっている。
そしてすべての結婚は失敗している。
奇妙な世界に私たちは住んでいる。
本当のハートの出会いである結婚を一つも見つけられない。
もし見つけたなら、あなたは驚くだろう
―それは占星術師によって決められたものではない。
占星術師は間違いなく間違う。

だが、星があなたに興味があることに、人はたいへんな慰めを感じる。
神は彼の面倒を見てくれるほど、神は自分の姿に似せて人を創るほどに興味を持っている。
だったら、ちょっと自分の顔を鏡でちょっと見てみなさい・・・それが神の顔かね?おかしな神だ。
だがこれらの虚構は男が書いていたため、
「神は自分の姿に似せて男を創った―だが女は違う。」ということになった。

彼は男を泥から創った。
英語のhumanという言葉はhumasという言葉から来ている。
Humasとは泥という意味だ。
アラビア語のadmiはアダムから来ている。
Admiは泥を意味する。彼は泥から女を作れなかった。―
まるで泥がとても貴重であるかのように。
泥から女性を作ると、彼女たちは平等になっていただろう。
そこで神は男のあばら骨を取って、女を作らねばならなかった。あばら骨から女を作った。

男はただ優位に立っていたかった。
―彼は泥から作られたのだけれども。女性は土からさえ作られなかった。
女性は男から取られたあばら骨から作られた。

私は聞いたことがある。
三人の男が誰の職業が最も古いのか話し合っていた。
聖職者だった一人の男が言った。
「私の仕事が一番古いな。というのも、人間が最初にやったのは神に祈り感謝することだからな。」

だが二人目が言った。「そんなのはたわごとだ。私の職業の方が古い。」彼は外科医だった。彼は言った。「神は女を作るために、男からあばら骨を取り出した。私は外科医だ。そして最初の手術は神が行った。それ以前には混沌しかなかった。」

三人目が笑って言った。
「それが私の職業が一番古いことを立証する。」彼らは言った。
「おまえの職業?それ以前には混沌しかなかったんだぞ。」

彼は言った。
「そう。でも要点は誰が混沌を生み出したかってことだ。」彼は政治家だった。
彼らなくしては、もちろん混沌を生み出すのはとても難しい。

神はいない。―私たちはいまだに混沌に生きている。
今でも政治家が混沌を生み出している。
昔々に彼らが混沌を創ったわけではない。彼らは今でも仕事中だ。

瞑想は個人の中の革命だ。

社会革命は失敗している。
数々の社会革命があった―フランス革命、ロシア革命、中国革命―それらすべてが失敗した。
まさに革命の力学の何かが失敗せざるをえないものなのだ。
なぜなら古い体制を、古い権力を、古い政府を、古い社会を拭い去るのに成功した者たちは古い社会の一部だ。
それが一つだ。彼らは古い社会によって条件づけられ、教育されてきた。
彼らは同じ手段で、同じ嘘で、同じ戦略で古い社会と闘ってきた。
彼らは古い権力よりもずるがしこく、暴力的で、強力だったので成功したのだ。
そしていったん権力の座につくと、権力は堕落する。
―完全な権力は完全に腐敗する。彼らは闘争のはてに権力の座についたので、誰も彼らを引き釣り下ろせないようにあらゆる取り決めをしていく。

ソヴィエト連邦では革命は最も難しいこと、ほとんど不可能だった。
彼らは抜け道すべてを塞いでしまった。
彼らは自分たちが皇帝を相手にいかに成功したかを知っているからだ。
今では彼らは誰も後を継ぐことを、自分たちを権力の座から追い出すのを許さない。―不可能だ。

ソヴィエト連邦で、革命は単に不可能だ。
それについて話すこともできない。妻や子供とさえ話すことはできない。
―なぜなら子供が共産党に通報するからだ。妻が共産党に通報するからだ。
彼らは褒賞を受ける。誰もが互いに見張りあっている。
子供は両親を見張り、夫は自分の配偶者を見張る。誰も信じられない。

スターリンが死ぬと、フルシチョフが権力の座についた。
共産党行政府との最初の会合で、彼はスターリンを暴露して言った。
「そのような残虐さは見たことがない。何百万もの人たちが殺された。
 容疑だけで充分だった。
 匿名電話をして誰かを反共だと言うと、まさにその日の内に、
 その男は姿を消して二度と消息は知れなくなる。」

スターリン一人で百万人をソヴィエト・ロシアの中で殺した。独力でだ。

フルシチョフは行政府の中にいた。
後ろのほうで一人の男が叫んだ。
「あなたが行政府にいたとき、そうしたことすべてを知っていながら、どうして以前は何も言わなかったのか?スターリンが死んだからか?」

フルシチョフは少し沈黙してから言った。
「同志よ。誰が言ったかわかるように、立ち上がって私に顔を見せてもらえないか?」誰も立ち上がらなかった。

フルシチョフは言った。
「わかったかね?あなた方は行政府にいる。ちょうどあなたがたと同じように、私も行政府にいた。
 立ち上がったら、どうなるかわかっとるね。明日には誰も君の消息がわからない。
 スターリンは死んだが、彼の計略はつづけなくてはならない。
 他に方法はない。彼は罰せられるだろう。」―そして彼は罰せられた。しかし死んだ人間をどうやって罰する?

彼らは彼を罰した・・・
彼の墓は、ロシア革命の指導者レーニンの脇に置くように言い残した。
レーニンの遺体はクレムリンの中に安置されている。
スターリンの遺体は、彼の遺言により、レーニンの側の大理石の墓に安置しなければならなかった。
罰として、彼の遺体は墓から引きずり出され、モスクワの通りを引き回され、彼が生まれたコーカサスのとても辺鄙な地域に戻された。
彼はそこで、名前さえ書かれていない、ありふれた墓に葬られた。

フルシチョフはスターリンと同じことをやった。
フルシチョフの後に権力の座についた人たちは、フルシチョフと同じことをした。

権力には奇妙な魅力がある。それは人を酔わせる。

すべての社会革命は失敗した。
そして将来においても、社会革命が成功する望みはない。
なぜならその仕組みそのものが自滅的だからだ。

だから、私は唯一成功しうる革命を教える。
それは個人の中の革命だ。
人が「この不満足を超えていく道はないのか?この苦悩から逃れる方法はないのか?」
と尋ねるように、個人をもっと不満足にしなさい。

瞑想が不満足から、苦悩から抜け出す道だ。

あなたはただ目撃者、マインドの観照者にならなければならない。


ワドゥドゥ。あなたはマインドが世界を創りだすと言う。それは真実だ。

だが瞑想はマインドではなく、マインドは瞑想を創りだせない。

瞑想とはマインドから外にいることであり、
マインドを観る者になって、
マインドを通り抜けるあらゆるものごと
つまり欲望、想像、思考、夢想、マインドの中に動きつづけるものすべてを観照することだ。
あなたは単なる観照者になる。
ゆっくりゆっくりとこの観照は強くなり、中心に定まり、深く根を降ろすようになる。
そして突然、一つのことを理解する。
あなたは観照者であり、マインドではないと。
他の諸々のことがあなたの外にあるようにマインドもあなたの外にあるということを理解する。
世の中はあなたの外にある。
マインドはあなたの外にある。
肉体はあなたの外にある。
あなたは奥に秘められた核でそれ以外はすべてあなたの外側にある。

この最奥の中心の体験が満足をもたらす。
あなたがもたらすのではない。
それはやってくる。
それはただあなたに降り注ぐ。

あなたが実践(practice)する満足は偽物だ。

ひとりでにやってくる満足は本物だ。

世間(市井)に行って、人々にマインドの目撃者(観照者)になる方法を教えなさい。
ただし、彼らの欲望に満足することを教えてはならない。
本当の満足がやってくるまで、私たちは彼らをもっと不満を抱かせなければならない。
あなたが彼らを満足させるなら、本物の満足はやってこない。
あなたは作り物で満足する。そのこと自体が障害になる。

ワドゥドゥはサイコセラピストだ。
妻のワドゥダもまたサイコセラピストだ。
彼らは共にワークしている。
彼らはマインドに関する限りはエキスパートだ。
だがマインドは超越されなければならない。

マインドは私たちが演じるべきゲームではない。
マインドは私たち生きるべき世界ではない。

私たちが生きるべき世界はマインドを超えたところにある。

世間(市井)の中での瞑想はすばらしいアイデアだ。
だが、瞑想とは何かを正確に理解しなさい。
ただそれを知的にではなく、自分のあり方をもって正確に理解しなさい。
人々と分かち合う何かをじかに体験しなさい。
そうでなければあなたは知りもしないことを繰り返すオウムに過ぎない。

そして私は私のサニヤシンが知らないことを繰り返すのを禁じる。
知らない限りはこう言う方がいい。
「私は無知だ。私は知らない。」その無知はあなたのものだ。
少なくともそれは真実だ。
誰かから借りた知識はあなたの自尊心に反する。
それはあなたのものではないので、分かち合うことはできない。
そもそもあなたはそれを持っていない。

あなたが知っていることすべてはマインドの領域のものだ。
そして瞑想とはハートの体験だ。
だからまず、あなたのハートを歌わせ踊らせなさい。
瞑想の中に喜び、それから世間(市井)に行くといい。

OSHO UPANISHAD #33


2014年03月12日