自己肯定はむしろ「らしさ」から離れる?

己肯定と他者肯定感
ネットでそれを検索したら、
自己・他者肯定感診断なるものが出てきた。
ちょっと面白そうだから、やってみたけど。
 
あなたは【人格者型】ですとな?
 
ほんまかいな?(^-^)
 
まあそんなことは横に置いといて
 
 
 
自己肯定と他者肯定。
 
同じ肯定でも、それらは別物のように感じられるかもしれない。
 
なぜなら、自己肯定ができるようになったからといって他者肯定ができるようになるかというとそうではないからだ。
 
 
 
どのような信念や価値観を持つかにもよるけど。
 
場合によっては自己肯定することによって、
他者との壁や分離感が生まれて他者肯定ができなくなっていくこともある。
 
ただそれとは逆に、自己肯定することによる優越感に支えられて、その余裕から他者肯定ができる場合もある。
 
これは、どちらかというと快楽に浸っている時だけのもの。
 
 
 
肯定するということは、これでいいんだと自分の「正しさ」を確認したり証明しようとするプロセスだ。
 
このやり方だと自分の「正しさ」の枠外のものは受け入れがたいものになってしまうことだろう。
 
ある意味「正しさ」に執着してしまう。
 
執着とは「らしさ」から遠ざかることだ。
 
 
 
この執着がある限り、自己肯定ができるようになったとしても、心理的なストレスは残り続けてしまう。
 
なぜなら、執着しているものを守り続ける必要があるからだ。
 
悪い◯◯があるけど、私はこれでいいんだ!という自己肯定ではなく。
 
悪い◯◯をもって観てみよう。
 
それってどういうことかというと。
 
例えば、自分の人生経験で一時的に悪かったことが、時間が経過するにつれて、その失敗があったからこそ上手くいったなんてことがときどきありますよね。
 
 
そういったことと同じかもしれないという可能性を持つようになると
より深く「悪い」を観ることができるようになります。
 
 
闘うことなく、よりよく付き合ってみることができるようになるとより深い、ある意味ゆとりというか心のスペースが出来てきます。
 
そのスペースができると執着が緩くなっていることにも気づくかもしれない。
 
執着があると肯定するためには「悪い」ことに対して「許す」というプロセスが必要だけど。
 
執着が緩くなると徐々に「許す」感覚がなくなっていく。
 
 
許すときは自分の確固たる価値観があるけど、許すって感じになるけど。
 
価値観に執着しなくなるとわざわざ許すことをしなくても済むようになります。
 
 
 
それは受容するといったらいいのだろうか?
 
まあちょっと違うような感じもするけど。
 
正しいと間違いとの違いがなくなっていくような感覚です。
 
 
その感覚が芽生えると
 
自分と他人との違いもなくなって一緒なんだという感覚に包まれるかもしれない。
 
その感覚を味合うようになったら、
 
もはや自己肯定や他社肯定を超えた領域を体験するようになるかもしれませんね。
 

2019年03月22日