感性行動研究所
107-0062 東京都港区南青山2-2-15
ハワイのフナ(古代形而上学)・脳科学・ヨガ・エネルギー療法や
心理学を融合した幸転プログラム
いろんな文化や哲学に触れる。
そして
共通するものの中には真理ともいえるようなものがチラホラと
見え隠れしたり。(^-^)
そういったもののひとつに
自我(エゴ)がないとき「のみ」に愛がそこにある。
というのがあります。
う~ん。
まあそんなこと言われても
まあなんともイメージが湧かなかったりする。(^-^)
こういった言葉を確かめようとするときって
自分自身に当てはめて、
内面を観てみようとすることが多いものです。
いわゆる自分事としてとらえるというやり方です。
でもそういったやりかたよりも、
外の人間関係を例にしてみると
もっと分かり易いかもしれませんね。
まあ、自分の事としてよりも
他人事として観たほうが分かり易いことってありますから(*^^*)
なので、
想像力を働かせて、
今まで出会った人で
最もエゴイストだと感じられた人を
思い出してみることにしましょう。
ばぁぁぁん!
まあこの写真はさておき。(置いちゃうのかい!)
思い浮かぶ人はいますか?
もしいるようでしたら
その人が目の前にいると想像してみます。
そうイメージするだけで、
(些細なものであっても)必ず反応があるはずです。
どうでしょう?
どんな身体の反応がありそうですか?
これは一般的な話になりますが、
不思議なことに私たちは相手の強い自我(エゴ)に触れた時
身構えて防御の姿勢を無意識にとろうとする傾向があります。
自分の中にある、その反応は闘争か逃走のどちらかですが
いずれにしても「攻撃的な」ニュアンスがあることにも気づけます。
攻撃する時って守ることも大切だから、
門を閉ざすような感覚もありますよね。
しっかりと門を閉ざしているときは、
外で何が起こっていようが、
自分の身を守ることだけで精一杯って感じになる。
つまり、そうやって守っている時は
利己的になっているはずです。
不思議ですよね。
もしそうなら相手と同じです。
じゃあそれとは逆に、
誰かを思いやったり、
助けようと自然に体が動いたときはどうでしょう?
散歩していて
よちよち歩きの小さな子と母親が向こう側から歩いてくる。
そしてまさにすれ違う寸前
子供がつまづいて転びそうに…。
そんなとき、瞬間的に体が反応して
手を差し伸べようとする。
こういうのって「考え」るまえに
動いてしましますよね。
そういう反応って
感覚的には
(特にメンタル面において)意識(心)の門が閉ざされていたら、身体はそんなふうには動かないことでしょう。(気づくこともないかもしれません。)
これは思いやりを注ぐということでも同じかもしれませんね。
そういった純粋な行動をとっているとき
身体の感覚には、
利己的※だと感じられるようなところは
それほど見当たらないはずです。
※利己=英語ではselfishness、self-interest、egoism
ここでは特に自分にしか注意を払えなくなっている状態を差します。
中世のフランス貴族、ラ・ロシュフコー公爵は
”世間の人が友愛と呼称するものは、社交・欲望のかけ合い・かけ引き・親切の交換にすぎない。
つまり、自愛がつねに何か得をしようとする一種の取引にすぎない。”
なんて名言を残してます。
また
インドの瞑想修行の際、シュリ・バガヴァンからは
『あなた達が注いでいる愛は、“愛”ではありません。』※
といった感じの教え授かったりしたものでした。
※その場のエネルギー(イニシエーション)を含む僧侶向けの密教的なスートラのため、スートラの文章そのものや詳細をご紹介することはできませんのでご了承願います。
話を戻しますが、
人を助けるとき、
サポートをしようとするとき、
特にセラピーなどではそうですが
マインドの表面的なものだけを扱うカウンセリングなら差し支えないものの
もし深層心理的な領域まで踏み込むのなら
誰かを癒すためには
特にサポートする(助ける)側には、
この自我(エゴ)の問題に向き合う必要が出てきてしまいます。
なぜなら苦しんでいるとき
そのほとんど場合、その意識状態は
縮んで閉じこもり
つながりを失って
結果的に利己的な状態になっているはずだからです。
※英語の利己=selfishness、self-interest、egoismのどれも当てはまりそうです。
かつてアインシュタインが
『いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識によって解決することはできません。』
と言っていたように
(深層心理や潜在意識的な交流(つながり)がある場合は特に)
メンタルの領域において
利己的になっている人に利己的な状態に陥っている人を助けることはできないと思うのです。
例えばメンタル面でのプロファイルするときには、専門家であればあるほど、確信をもってタイプ分けをすることも少なくありません。
でも、それは一種の決めつけとなってしまう場合もあります。
もしそうならSelfishness(決めつけをする自分本位)な状態では、Self-interest(心が閉じている)状態の人に対する手助けにはならないかもしれません。。
そうでなくても
たとえば
助けることによって使命が果たせるとか
私は〇〇を持っているから助けたいとか
存在意義が感じられるとか
役に立っていることを実感したいとか
そういった
とてもポジティブな利他の精神の裏側に
誰にでも利己的(egoism)な部分が上手に隠れていたりします。
もし
より深い領域まで触れようとするのなら
利己の意識とは少し違った意識。
利己から少しだけ自由になった意識。
そういったものがそこにあるとより可能性が広がるのかもしれません。
心の深い領域においては
(コーチやセラピストなど)
癒しを必要としている人や
(カウンセリングやセラピーのセッション)
行き詰まっていると感じている人の
(コーチングセッションなど)
問題を解決することはできない。
そう感じています。
(あくまでも深いところでは。)
なぜなら
心の声に耳を傾けると
そのどちら側も
自分・自分・自分(私・私・私)とささやいていて
結果的にどちらも同じような意識状態になってしまっていることが感じ取れるからです。
先日の記事でもご紹介したアインシュタインのこの名言にもありますよね?
“いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識によって解決することはできません。”(アインシュタイン)
まさしくそういうことではないかと。
とはいうものの、
だれもがそういった意識状態になりがちです。
じゃあどうすればいいのでしょう?
ドイツの哲学者のフォイエルバッハは、こういう格言を残しています。
君が自我を放棄すればするほど、
それだけ君の愛は偉大になり、真実になる。
byフォイエルバッハ (ドイツ 哲学者)
彼の言うように
「自我(アイデンティティ)を放棄する」
というのなら
この図で示すように、
自我(自己意識)を支えている土台※たちも手放していくというプロセスにつながっていきます。
※土台:三角形の自己認識・アイデンティティを下から支えている価値観・信念・能力・行動・環境などの下の台形のところ。
つまり信念・価値観・能力・やっていることなどへの執着から自由になっていくというプロセスです。
このあたりって
とっても深い話になります。
自信や
自己肯定や
自己有用感や
自己重要感とか(自尊心とは異なります)
プロ意識って
こういったことが積み上げられて出来上がっていくものです。
しかしこういった根拠をもつプロセスとは
逆になってしまうからです。
(さらに、これらを手放すことに、エゴはものすごい抵抗をしてきます。)
自我に執着するほど、愛は小さくなり偽りになる。
自我を支えている土台たちに執着すればするほど愛は偽りになる。
もし仮に
真実がこのような哲学の解釈どおりであるなら
対人セッションなどをやっている私たちにとって
そのあり方が問われているということになるのかもしれません。
手を差し伸べる(助ける)側にエゴ※がある限り
それがポジティブなものであったとしても
(助ける側の)土台となっている価値観=「正しさ」などと比較してしまいます。
その比較の結果、問題だと感じた部分に対して
潜在的に、どこかで咎め(ジャッジし)てしまいます。
(※ここでは信念や学問や価値観への強い執着がある自我をさします)
比較では癒せない。
ただそこに緊張を生んでいるだけ。
もし仮に
セラピストやコーチといったサポートする側が
サポートされるクライアント側の何か(問題や癖)を咎めたり、やめさせようとするとか。
逆に
クライアント本人が
自分自身の癖を咎めたり、やめようとするとか。
そういったところがあれば。
意識が同調して、
その共有の場に居心地の悪い(悪者を排除し消そうとする)エッセンスが微妙に漏れだしてしまうこともあるでしょう。
そういったガス漏れが起こっちゃうんです。
何かにこだわりがあって執着していれば、
かならず意識状態にそういったガス漏れが起こります。
そのガス漏れがある限り、
“深層の部分”での癒しは起こりづらくなります。
悪いところは治して消してしまおうという意識であっても
表層のところでは、原因や答えを見つけるかもしれせん。
それで納得して安心もする。
でも、どこか違和感を抱いているのなら、
ガスが漏れていたということでしょう。
消し去ろうとする感覚もガスであり
それがある限り、深層の癒しは遠のいていきます!
そういったジャッジが生む緊張感は
自己治癒力の源泉への扉を閉ざす方向に働くので
(必要とされるエネルギーの源泉)
できればそれを解きほぐせるといいですよね。
また、それがコーチングであるのなら、
ブレイクスルーを起こすためのインスピレーションが
その源から湧き上がってくるのだから。
これはセルフセラピーや内観することでも同じことが言えるでしょう。
そして
感覚的に咎めることやしがみつくことをやめた時、
活力がみなぎっていると、
敬意や感謝の念を抱いて注意を払って(観察して)いることに気づきます。
もしそういう意識状態にあるなら
内面の問題は解決や解消や解放へと向かっていくことになるでしょうね。
コーチやカウンセラー(ヒーラーやサイキックやスピリチュアルリーダーを含む)といったサポートをする側は
プロでありながら、対等もしくは教わる(経験や学ぶ機会をいただいている)側として、
向き合う相手への敬意があるだろうか?
尊敬するような感覚があるだろうか?
感謝できているだろうか?
そういうところが問われているようにも感じるのです。
クライアントとは、
それがヒーリングであったとしても
より深い洞察を得る機会に気づいた人であって
人生のチャレンジャーであって
少なくとも「救うべき気の毒なひと」ではありえないのです。
そう思います。
ジャッジしたり
しがみつくことをやめた時、
内側からあふれる温かい感覚が広がりはじめます。
それは治癒力(元に戻ろうとする生命力)につながり、
集合意識的な叡智につながっているような感覚です。
その包み込むような温かい感覚そのものに浸っていると
その感覚が自分の存在そのものになっていきます。
それをあえて言葉にするなら、
感謝とか愛とか敬意とか慈悲とか呼ぶことができる理性というか知性というか
単なる感情を越えた
すべてを含むようなもの=(限りのない)無限の存在だと感じられるかもしれません。
↓この図のスピリチュアルの上の二重線に該当するかもしれません。
その感覚につながったり、
浸っていたりしているとき
自分を愛するということも、
きっとこういうことなのだろうという確信をもつのでしょう。
そして
自己愛に土台※は必要ないと実感するのです。
(※自我を支える信念や価値観や能力や地位やプライドなど)
土台を必要とする愛なら、それは偽りです。
自信というものも本来、土台(根拠)は必要ないはずです。
土台が必要ないなら自己有用感というのもありません。
そんな感じに悟っていくこともあるでしょう。
いま自分の中にジャッジするような緊張感があるだろうか?
理想などと比較するようなところがあるだろうか?
証明したいという感覚や認められたいという感覚はあるだろうか?
もしあるようなら
それを咎めたり消そうとするのではなく、
慈悲の気持ちをもって緩めたりほぐしてみようという想いをこめて注意を向けてみよう。
たとえ上手にできなかったとしてもトライするのです。
もしそうすることが徐々にできるようになったら、
咎めるような過緊張の状態から抜け出して
何かを整えるような感覚へと変わっていることに気づけるようになるかもしれません。
そうやって、「〇〇もどき」から卒業していくこともあるでしょう。
そう思います。
長い文章をここまでお付き合いいただきありがとうございます。
2019年04月08日
ツイート