責任って「許すこと」から生まれる?


任って言葉は、あまり好きじゃなかった。

 

 

まあヤンキーだったからというのもあるんだろうけど。

 

 

なんか強制されるようで、

 

見えないプレッシャーを感じるからだ。

 

 

 

だから適当な感じの高田純次が好きだったのだろうか?(*^^*)

 

 

 

 

責任感をもつって

 

自分に厳しくあるという美徳のひとつでもあるけど。

 

 

 

過度に厳しすぎると、

 

自分を責めたり

 

罪悪感を抱いたり

 

意識が「傷ついた状態」もなりがちです。

 

 

 

ルイジアナ州立大で心理学者が行ったある心理実験があります。

 

若い女性が被験者です。
彼女たちは体重に気をつけています。
彼女たちにお菓子を4分以内に食べてもらいました。
この時「どんな気分だったか」を用紙に記入します。

次、お菓子を食べてもらう前に、グループをふたつにわけて、
ひとつのグループには、

「自分に厳しくしないように、誰だって自分を甘やかすことも
 あるってことを、忘れないくださいね」
  
と、優しく「自分を許す」言葉をかけ、
もう一方のグループには、そうしませんでした。

この実験では、お菓子はどれだけ食べても自由です。

すると、「自分を許す」言葉をかけられたグループが食べた量は、
そうされなかったグループに比べて、半分以下だったのです。 

          『スタンフォードの自分を変える教室』
          (ケリー・マクゴニガル 大和書房)より抜粋

 

著者の格言を知ったのでネットで調べ、この本のことを知ったんだけど。

 

 

実は、本の方はネットでの紹介をチラッと観ただけなので

(読んでから書け!と突っ込まれそう(^-^))

 

ここに書くのは

 

東洋の古い哲学や古代インドの教えや世界のエソテリックな教えに影響を受けたもののとらえ方ので

 

ここの内容は本に書いてあるものとはちょっと異なるかもしれません。

 

 

 

 

 

この実験結果をホリスティックな観点とエソテリックな観点でみるとこんな風に感じ取ります。

 

(以下の一連の流れは一瞬で感じ取れるものですが、あえて言葉にするとこういう表現になります。)

 

 

 

例えば、この実験の「意図」をより深くくみ取ります。

 

↓こんな風に

 

 

本来英語圏での責任感=Responsibilityは

 

その語源を探ると

 

状況に合わせ対応し「続ける」能力を意味しているようです。

 

 

 

 

でも日本語でいうところの「責任」ってみなさんはどう感じますか?

 

 

その響きになんか周りとの「壁」のようなものがあるように感じられませんか?

 

 

でも対応し続ける能力となると

 

壁ってもんがなくて、

 

むしろつながりができます。

 

 

 

(エソテリックな修行でも「許すプロセス」って解放を意味するので)

 

 

そもそも許すってこの壁を取り払うことなんです。

 

 

壁を取り払うためには、まず自分自身との壁を取り払うことは必要。

 

 

 

 

責任ってそもそも

 

「縮む」ようなフィーリングじゃなくて

 

「緩む」フィーリング。

 

むしろ「思いやり」なんだと思います。

 

 

 

 Copyright 2019  Ryuji .ehara All rights reserved. 無断転用禁止


2019年07月08日