自己重要感と自己受容の狭間で

自由に生きるということ


かつてそのことについて考えていた頃は、自由は生き方・振舞い方ということをイメージしていたように思える。

そして実際にそういった生き方をし始めると、そこに「方」というがなくなっているような感じもする。

あり方っていうと方がついてしまうから、ちょっと違うけど
「ある」と表現しても、それだとなんのことだかわからん。

自分にやっていることは、他人にも行うものだと、巷ではよく言われるようになってきている。

自由に生きていて、寛容になっているひとは、自分自身にも寛容なんだけど。

その状態が「ありのまま」っていう感じのようだ。

そのありのままの状態って

「私は○○のままでいいんだ!」

なんていう言葉を心の中で言い聞かせたり、口にしてみたりするといいなんて、アドバイスされ、実際にそうしてみると、なんらかの変化が感じられるかもしれない。

その変化に乗ってしまうというのもひとつの手だ。

そして一時的に楽になった後に、じきになんだか物足りなさとか、欠乏感とか空しさがじわじわと湧き上がってくることに気づけるようになる。

たとえば

「私は○○のままでいいんだ!」

と言い聞かせているとき、人は無意識のうちにバランスをとる。


そこには「いいんだ!」という想いの反対、「よくないんだ!」のエッセンスが隠れている。

自分の心に正直になると
「本当はよくないんだ!でもいいんだ!」
とか肯定しようとしている背景には否定があることに気づく。

そして否定があるということは、何らかの判断基準があるということにも気づく。

そうなると「いいんだ!」と宣言しているのは、条件付きのニュアンスがあって、実は無条件でないことが解ってくる。

そして否定や判断基準があるということは、そこに葛藤もある。
本来、思考活動(マインド)というものはそういうものだ。
感受性の高い人間からするとこういった人は押しつけがましく「うるさい」感じがする。

思考「活動」なのだからBeingというつもりでもそれはDoingだ。

そういった自己承認であるのなら、他者に対しても「承認」することになる。

そして他者に対しても「承認」を求めるようなり、それが愛に関することであっても「承認」の要素が含まれて、すべてが条件付の愛というものになる。

条件付きだからそこに期待があって、その期待どおりでなければ、裏切られたと感じてしまうだろう。

自他ともに承認をもとに生きるということは、他人は私の期待に応えなければならないし、自分は他人の期待に応えなければならないなんてことになる。

もしそうなら、なんとも不自由な関係性だ。

ありのままであろうとして、結局それぞれの価値観で自分も他人も縛り付けてしまう。

ここにも光と影ある。

ということはもっとこの陰と陽とについて、そのバランスや相補性を考えてみると、もっと自由な関係性がみえてくるかもしれない。


「私は○○のままでいいんだ!」
というとしたら
その○○には、ちゃんと向き合っているのだろうか?
○○から回避していないだろうか?
○○に対して悪いというレッテルを貼っていやしないか?

本来ネガティブであると感じていることや、やめたいと思っている癖のようなものがあるとしたら、私たちはそれに向き合わず、逃避し、レッテルを貼るような感覚がかならずあるはずだ。

そして本当は○○は存在してはならない
または本当はなくなった方がいいとも感じているかもしれない。

もしそういった感覚がないというのなら、わざわざ「私は○○のままでいいんだ!」なんて想う必要すらないし、そんなこと思いもつかないだろう。

だから○○の存在を「許す」わけだけど「許す」ということは悪いものだ!というレッテルが前提となる。

そしてレッテルを貼った瞬間、私たちは○○にしっかり向き合うことはできないし、○○のありのままの姿を目にすることもでいない。

たとえば○○というのは「怒り」だとしよう。
その怒りというのは自然界においては生命の営みの一部だ。

たとえば森や草原で熊やライオンやゴリラが怒っているとしたら、それって悪いことなのだろうか?
もちろんそれは普通の営みであり、そうするにはもっともな理由というか、
何かを守るという「目的」(=肯定的意図)がある。
そしてその怒りは一過性の来ては去っていくものに過ぎない。

自然の中では、怒りや怖れというネガティブな陰の部分は「守るための勇気」というポジティブな陽の部分を支えてくれている。(=陰と陽の相補性)

問題となるのは自然でなくなることで人間は理性の脳があるから、その怒りというエネルギーの流れを思考により抑圧してしまうからだ。
すると、内側にそのエネルギーが蓄電され、そもそも怒りという感情は、一過性の短命な感情にもかからわず、生命力をもってしまい、生きながらえてしまう。それはやがて身体の内部に圧力を持つようになる。

あたかも空気銃の圧力をためるかのように…。
そうするとちょっとしたきっかけで、引き金に触れただけなのに自分でも想定してないほどに。
ドカン!と。。。

だからそうならないように、空気を抜いておくことが大切で、そのために「許す」ことが大切だとされるのだ。

じゃあその(○○である)怒りをどう扱っているかというと、おそらく自分の立ち位置は上から目線のはずだ。
本当の意味での「あっていい」とは思っていないし、対等の立場ではさらさらなく、その(○○が)怒りがなぜそこにあるのか、その正当性や目的を理解していない。

悪いというレッテルを貼っている自我の部分は「自分が正しい」と思っているし、その怒りに敵対している。
その自分の内部にある「怒り」に行っていることと同じことを外部にある周りのひとにも行ってしまうのだ。

自分を正しいと思って受け入れられない振る舞いに対して本心では敵意を抱く。

そうすると上から目線で悪いけど許してあげる。
なんて自分の感情や振る舞いに対しても他人のそれに対しても「承認」のかたちをとる。

「承認」であるかぎり条件つきだ。

条件=期待だ。

期待とは自分が思っているとおりにあってほしいという想いだし、本来なら自由であっていいものを自分の理想という枠にはめようとする行為だ。

そういった条件付きに承認をしているかぎり、その枠から外れているものに対しては、許し切れない。

だから本当は許せないからこそ「~でいいんだ」とわざわざ言わなければならないのだ。

そういった背景があって「~でいいんだ」と言う限り、自分も相手も本当は自由にはなれていない。

「~でいいんだ」というのは、堅くなった考えを緩めるキッカケとなるかもしれない。
そのキッカケだけでも、堅くなりっぱなしでいるよりも充分だろう。
でもそれは評価したうえでの承認という分離のレベルにとどまる。

受容する。

それは否定的なものに対して、それがあっても当然だと思えるような「目的」や理解したり、そのような「肯定的意図」を感じてくみ取ることで、否定的なものがむしろ役立つ何かを支え補ってくれていると感じて身体の内側から緩みが溢れ出て包み込むような感覚が生まれなんの根拠もなくただそのままを受け入れるというもの。

そういう向き合い方ができたとき、本当の意味での内面に向き合うということができるのかもしれない。


2014年03月27日