意欲の影に潜んでるのは何?


ンドの瞑想修行では、


 

内観に続く内観って感じになるもの。

 

 

前回の記事でマウナ(インドでいう沈黙)に触れましたが、


瞑想修行では、
 

自分の行動をよく振り返って観るなんてこともします。



なぜなら、そこから深い洞察を得たりするからです。

 

 

まあそれは過去にしてきたことを振り返ったりするわけで、


反省して未来に役立てようなんて感じまでは
 

私たちも日常やっていることなので、
 

そういった浅いレベルまでなら、
 

なんとかできるものです。

 

 

時々、すごく深いレベルの洞察もあったりするのですが、
 

これから(未来)は「こうしよう」的な感じではなくなります。



深いインスピレーションにつながって
 

マインドでこうしようと思う前に自動的に流れていく

 

そういった感じになることでしょう。




話をもどしますね。



洞察で「こんどはこうしよう」的な学びを得たとしましょう。

 

でも、成長があるなら、

 

チャレンジがあるなら

 

きっと
 

過去に体験したことがないことにも遭遇することになります。


そうなるとなかなかそういった過去の体験による自分なりの「教訓」は
あまり役に立たない。


なので。

できれば今この瞬間に役に立つことができたらなぁ~なんて思うかもしれません。

 

 

 

 

 

かを求めて行動できているとき

目標に向かって行動ができている時、

 

普通ならそれでOKだってことになりますよね?

 

 

もちろんそれでいいんです。

 

 

 

 

ただ

 

当たり前のことだろうけど

 

達成した後、

 

やり切った後に

 

達成感(または挫折感)を味わったりしてから、

 

ふと我に返ったときの心境ってのは、

 

なってみないとわからないもの。

 

 

 

でも、

 

実は、内側を観て

 

今この瞬間に、

 

行動を「掻き立てているもの」

 

または

 

自分を「駆り立てているもの」

 

をよく観ることができたなら。

 

 

 

達成した後にふと我に返ったときに、

 

どんな心境になるかが

 

なんとなくわかってしまうかもしれないのです。

 

 

 

 

 

 

どうしてそんなことが可能なのか?というと。

 

 

インドの古い哲学によれば、

 

行動している瞬間瞬間の今。

 

成っているものに成る。

 

とされているからです。

 

 

 

これは多くの先達たちによる叡智のひとつであり。

 

日々、これを内観してみて

 

つくづく実感したので、

 

ここで紹介してます。

 

 

 

この叡智を

 

もう少し具体的に表現するなら

 

(特に内側の状態=メンタルのところは)

 

(今)成っているものに(未来)なる。

 

ということです。

 

 

これって、ちょっと興味深くはありませんか?

 

 

 

 

ンドの古い哲学によれば



 

(今)成っているものに(未来)成る。

といわれてます。

 

 

 

またフランスの哲学者ラ・ブリュイエールは

 

ただ、動機だけが
人々の行為の真価を決める。


なんて名言を残したりもしています。

 

 

 



たとえば

将来の見通しが不透明で

なんとなく「不安」に駆られて

行動したとしましょう。

「あ~!アレをしなきゃならない。そうしないと××だ!」

 

って感じで。



そんなとき、

その行動によって


上手くいったとしても
 

失敗したとしても
 

結果的に(内面では)
 

ふと我に返り自分を取り戻すと
 

まだ「不安」の状態が続いていることに気づくことでしょう。





それとは逆に

今、自然な流れの中で
 

「喜び」や「感謝」から活力が湧き上がって

ワクワク感に突き動かされるように


やりたいから自然に動いてしまったって感じで

行動したとしましょう。



そんなとき

その行動の結果
 

上手くいったとしても
 

失敗したとしても

結果的に(内面では)
 

ふと我に返り自分を取り戻すと
 

仮に失敗したとしても、
 

なぜか「ワクワク感」というか幸福感や感謝といったそんな感覚があることに

 

気づくかもしれません。


こういった体験、心当たりありませんか?

 

 

 

 

この瞬間に、

行動を「駆り立てているもの」があるようなら、

 

それをよく観てみよう。

ここでいう

「観る」というのは

 

観察することではあるけど。




先日の記事でもご紹介したように


観察といえば、

 

子供の頃夏休みの宿題などで

よく経験したことで

そこでも充分わかってはいるはず。



観察しているものを処理したり、

咎めたりすることじゃないってことは、

 

なんとなくみんな体験している…。



その当時の私たちがやっていたことは、

そのまま受け止める。

とか

(観察している間は)

注意を払い続ける。

といった感じだったと思います。




でも行動しているときにある

 

内側の「駆り立てているもの」

観察しようとしても

 

急き立てられるとか、

 

不安に駆られるとか

 

そういったものなら

大抵は悪者(問題児)で排除したいと感じてしまうもの。


まあメンタル的には

「ブロック」とか「ブレーキ」とか呼ばれる類のものですから。


そうしちゃうのも当然です。



そういった状況を

 

人間社会で例えるなら

そんな奴らを有罪に(ジャッジ)して


強制的に更生させようと

 

刑務所にいれたり

(変えようとして強要したり)

ひどいときには

 

重罪というジャッジになって


死刑(消して)にして当然だ

というかんじになる。




でも、そんなとき

必ずといっていいほど、

 

その悪者(問題児)の意見には耳を傾けていない。

 

 

 

だから

もしそうなら

 

公正な裁判が行われずに、

処罰しようとしているようなものです。




問答無用で“退治”しちゃうんですね。

 

 



仮にそうであったのなら

そこに本質的な癒しはありません。

 

なぜなら、それではハートが開花しないからです。


 

もし、そのかわりに

 

 

春の暖かな日差しが

 

凍り付いた蕾を育むかのように

 

もっと注意を向けて、

 

意識を注いだとしたら、

どのような変化が起こるのでしょう。





もそも変えようとするなら、それは「観察」じゃあなくなります。

 

変えようとしているときの

 

その感覚は、

 

(くりかえしになりますが)

 

自分の中に居座っている「悪者(問題児)だ」

 

自分自身でジャッジしているようなものです。

 

 

 

それでは

 

レッテルを貼られてしまった自分の一部が癒されることは、

 

まずないといっていいでしょう。

 

 

 

もしそうなら

 

解放されずにフタをしてしまうようなものです。





それは


相容れない存在を排除しようとする感覚と同じ。



リアルな人間関係でもそうですが、

排除しようとしているときは

 

敬意思いやりを見出すことはできません。

傾聴ってのもないでしょう。

 




そういうやりかたではなくて。


自分を突き動かす衝動や

 

モチベーションや

 

駆り立てているものを

 

よく「観て」みましょう。



たとえそれが

ポジティブに感じられても

 

ネガティブに感じられても

そのときの身体の感覚を

 

敬意や思いやりを抱きながら

 

注意を向けることからはじめてみます。




そうするとどこかに
 

緊張するような感じとか
 

堅い感じとか
 

冷たい感じとか


そういった感覚もあるかもしれません。(ここでは感覚Aとします。)





あるいは

 

広がるような感じとか
 

やわらかさとか
 

温かさとか
 

感じられるかもしれない。(感覚B



もしそういったエネルギーに突き動かされて

なにかを成しえたとしたら

結果的に内側で得られるのは、

 

潜在意識的には、行動を駆り立てた最初の感覚と同じだったと気づけたりもします。





もし緊張した感じの感覚Aなら

その感覚によりそって傾聴してみます。




ここでの傾聴ってのは

 

対話する感覚jというよりは、むしろ

敬意や思いやりをもって注意を向けてみるということです。




そういった意識の向け方をすることで

意識のエネルギーが注がれ

頑くなったところがほどけたり

縮まったところが広がったり

解放や癒しが起こります。(その可能性が広がります。)

 

 

 

 

さらに

 

このプロセスを経て、

 

内面の「うつわ」が広がっていくかのようにも

 

ときどき感じられることもあるでしょう。

 

 

 



そういうことが起こっていくと

より深いところが開花して

 

ハートも開花して

何を成しえたとしても

何を失敗したとしても

その結果、たとえ「感覚A」の中にまた入ってしまったとしても

つねに

 

関わる人すべてに

 

心の豊かさを見出せるようになるかもしれません。

 

 

そうでなくても、

 

純粋な生命力のようなものとして感じられるかもしれません。

 

 

 

それらを見出したり、感じることがあるようなら

 

その瞬間から

 

より「つながり」を感じるようになって

 

まわりがさらに鮮やかに活き活きとして見えるように

 

なることでしょう。


2019年03月28日